クラブ活動
2012年09月18日
文芸同好会:夏合宿

 8月25日(土)~27日(月)の間、2泊3日の行程で、文芸同好会の生徒たちは軽井沢まで合宿にいってきました。本日は、文芸同好会の中学3年生の生徒が記した旅行記をご紹介したいと思います。

 「軽井沢合宿記」



 

 横川駅で降りると、眼前に荒々しい岩山、妙義山が構えていた。が、そんなものには目もくれず、私達は駅前のバス停に向かった。バス停には、既に数人の観光客が並んでいた。行き先は軽井沢駅。言わずと知れた避暑地の王様である。

 軽井沢駅に行くのであれば、長野新幹線を使えばいいのだが、生徒である私が言うのも失礼ではあるが、文芸同好会にそんな大金はない。だからバスという幾分か安い移動手段を使ったのだろう。それに、恐らく先生方の思惑も少しはあったのだろう。バスが経由する場所、それは碓氷峠……

 バスが到着した。思ったより客が少なくスンナリと窓側の席に座れた。二年生部員が談笑する声を聞きながら、窓外に目をやる。退屈なくらい平穏な横川駅周辺の風景。退屈だった。眠気のせいもあったのだろうか。

 バスが動き出し、間もなく碓氷峠にさしかかった。が、相変わらず私は退屈だった。窓外の風景は、変わり映えのしない山の木々に覆われ、遠くの山々や、麓の様子はほとんど見えない。見えたとしても、風景が霞んでいて、見えにくいことこの上ない。夏は一年の中で最も空気が澄んでいないというから、仕方のないことなのだが……。

 しばらくして、前席に座る観光客が歓声を上げた。窓外は相変わらず鬱蒼とした森に覆われていた。恐らく反対側に何かがあるのだろう。私は身を屈めて反対側の窓を見た。歓声の正体は、めがね橋だった。赤煉瓦の三連アーチが美しいこの鉄道橋は、路線の廃線に伴い、観光地として整備され、現在は橋の上を歩いて渡れるようになっている。バスがその前を通り過ぎる間にも、数組の観光客が入っていくのが見えた。人気なのだろう。私達が乗るバスは、横川から軽井沢までをノン・ストップで走るバスだったので、途中下車してめがね橋に立ち寄ることはできなかった。

 その後の事は知らない。眠っていたらしく、後輩達に呼ばれて目が覚めた時には、軽井沢駅前のバス停に到着していた。

 大井川先生が、切符を買っている間に買って下さった、横川名物 峠の釜めしを食べながら、今度は電車で小諸へ向かった。

 

 

 小諸駅のすぐ近くに、どこか時代を感じさせる小さな建物がある。漆喰壁にベランダと扉と小さな窓をつけ、屋根を被せただけの簡単な構造だ。美しいとはお世辞でも言えない。

 この建物は、当時この地にあった小諸義塾の校舎を復元したものだそうだ。教育者で牧師の木村熊二が、地元の青年の要請を受けて開校したこの私塾は、個性的で自由な教育を目指し、近代教育の基盤を作り上げたということだ。明治二十六年(一八九三年)から明治三十九年(一九〇六年)のわずか一三年という短い同塾の歴史は現在、この小諸義塾記念館にて詳しく知ることができる。

 館内は案の定狭く、私達(八人)が入っただけで、今までがらんどうだった展示室がたちまち満員(という程でもないが、とても賑やかになったのは事実だ)になってしまった。展示室は、復元された教室をそのまま利用している。卒業証書や教師達愛用の品々などが、ショー・ケースの中に展示されている。

 実は、詩人で小説家の島崎藤村は、この塾で一時期教鞭をとっていたというのだ。教科は国語と英語。この明大卒のエリートを塾長、木村熊二が小諸に招いたという。卒業生によると藤村は「静かに教室に入ってきて、静かに授業を始め、生徒ががやがやしだすと、授業をパッタリと止め、ニコニコ笑いながら話を聞いて」いるような先生だったという。大変温厚な先生だったようだ。藤村は閉校の一年前まで教壇に上がり続け、執筆途中の長編『破戒』の原稿と家族を連れて小諸を去ったという。

 記念館を出てすぐの場所にある懐古園内に、小諸での藤村の暮らしぶりを紹介する施設がある。次の目的地はそこだ。が、その前に懐古園が何であるかを説明しよう。

 懐古園は、大河ドラマ『風林火山』で有名な武将、山本勘助が築城した小諸城の城址を公園として整備した、小諸を代表する観光地である。と言っても、天守閣を始め、一切の建造物は影も形もなく、あるのは野面積み(自然石をそのまま積み上げる石垣の組み方の一種)の石垣ばかり。ひたすら石垣ばかりでは客が来ないのか、園内には動物園などの施設があるようだ。苦しまぎれの動物園である。城址なんてどこへやらだ。

 藤村記念館へは石垣と石垣の谷間の道を進めばすぐに着く。とても小さな記念館で、先程の小諸義塾よりも小さい。館内には、同塾の教師が描いた掛け軸や藤村の愛用品、色紙などが陳列されている。小さいので、後輩や先生方は素早く館内を一周してしまった。ところが、私はと言えば、とある色紙に感動して、すっかり見入っていたのだ。

 

   簡素

 

 とだけ書かれた色紙だった。この二文字以外には何も書かれておらず、古びて黄色くなった余白だけが大きく残されている。藤村が自らの生活の信条を書いたものだということだが、すばらしいに一言に尽きる。一目見て、その余白に簡素な美しさと、藤村の強い意志を私は見た。名前すら描かなかった余白には、日本古来の芸術観、侘びの精神を感じた。そして、無駄なものを一切排除したその簡素には、「いくら富や名声を得ようとも、私は今までのようにニコニコと静かに笑って暮らしていこう」という、藤村の無言の声を聞いた。

 そして、「何か冷たいものを」という、身体の叫び声を聞いた。外はとても暑かった。恐らく、最も暑い時間帯だったのだろう。部員皆、バテていた。記念館前の蕎麦屋でかき氷を食べると、皆、幾分かリラックスしたようだった。本来の文芸同好会のやかましさが戻ってきた。二年生部員の杉田君はますます饒舌になった、五月蠅いくらいに……。

 蕎麦屋を後にし、懐古園の奥へ。記念館のすぐ近くに、島崎藤村詩碑が建っている。

   小諸なる古城のほとり

   雲白く遊子悲しむ……

 有名な『小諸なる古城のほとり』の詩が彫られている。高村光太郎によるものだそうだ。

 詩碑の先には小さな展望台があり、小諸の山々と、蛇行する千曲川の大パノラマが広がっている。山と川と木々と家々。それらが傾きかけた陽光に照らされている。水面や家々の屋根はそれを反射し、キラキラと輝いている。簡素な風景だ。もしかすると、藤村のあの生活信条はこの風景からきているのやもしれない。(それにしても強引すぎる解釈である)

 

 

 事件が起こった。

 おいてけぼりにされたのだ、私が。部長だというのに、なんと情けないことだろう。

 ……

 懐古園の近くに、無料で入館できる美術館がある。小山敬三美術館という。名前の通り、小山敬三画伯の作品を展示、保管する美術館である。かなり奥まった場所にあるため、客はほとんどいなかった。お陰でゆっくりと画伯の絵を、冷房のよく効いた展示室で鑑賞することができた。

 この小山敬三という画家を私は全く知らなかったが、作品の説明などを読むと、村山塊多や安井曾太郎などの大御所達との交流があったらしく、生前はかなり有名な画家だったようだ。文化勲章も受章している。全く知らない画家ではあったが、じっくりと、長い時間をかけて鑑賞した。幼少時より美術には目がないのだ。

 気が付いた時には、展示室に一人取り残されていた。その時は、皆、入ってすぐにあるモニター・ルームで待っているのだろうとしか考えていなかったのだが、いざモニター・ルームに行ってみると、知らないおじさんが一人座っているだけ……

 ははあ、これはおいて行かれたみたいだぞ。

 私はまず、玄関の下駄箱を確認した。後輩達の靴があれば館内のどこかにいるはずだ。しかし、後輩の運動靴は皮靴に変わっていた。私がおいてけぼりにされたのは確実なものになった。

 探すしかない。まず、美術館裏手にある画伯のアトリエからあたってみることにした。しかし、入口がどこにあるのかが解らなかった。それに、開いた窓から中が見えたが、それらしい人影は見えなかった。美術館の外に出てしまったらしい。ところが、次に何処へ行くのかが解らない。とりあえず、美術館を出てトボトボとゆっくり歩くことにした。そうすれば、誰か文芸同好会の人間が、私を迎えに来るだろう。そんな期待を寄せていた。この間、私は取り乱すことなく、あくまで冷静だった。

 すると、道の先の曲がり角を大股で歩く、白い背の高い人影がこちらに向かって来るのが見えた。人影はどんどん近付いて、笑顔の大井川先生になった。読みが的中した。

 大井川先生曰く、途中までずっと私がいない事に誰一人気が付かなかったようで、部長不在のまま、次の目的地へと歩を進めていたのだという。と、しばらく歩いているうちに、突然二年生部員の高橋君が、アッ、と短く叫んだ、という。ここで初めて私がいない、という事に気が付いたわけだ。どうやら私は、とてつもなく存在感の薄い部長らしい。悲しくなってしまう。

 今でこそ笑い話になるが、もし高橋君があの時気付いてくれなかったら、私は、この見知らぬ地で、一人寂しく路上生活をする羽目になっただろう。そうなったら、笑うどころの話ではない。とにかく私は、高橋君に救われ、こうして紀行文を書いているのだ。感謝、感謝。

 大井川先生と雑談を交わしながら、次の目的地、高浜虚子記念館へ。後輩たちは先に到着しており、合流した時には、学芸員の心配りで頂いた冷たい麦茶と菓子を食べながら、林先生の説明を聞いていた。

 正岡子規の弟子の高浜虚子は、見た者を見たまま詠む写生の句の第一人者として知られている。林先生はあまり好きではないらしい。虚子の代表的な句に、小川の上流から大根の葉が流れてくる情景を詠んだものがあるのだが、忘れてしまった。どうかこの鶏頭(三歩歩けばすぐに忘れる鶏にちなんでトリアタマ)を許されよ。

 戦時中、この地に疎開していた虚子の旧居が、記念館のすぐ横に移築されている。とても小さな家だ。これこそ簡素である(どこまで簡素を引きずるのだろう)。

 空が紅く染まり始めていた。初日の見学はこれで終わり。あとはホテルに向かい、夕食を済ませ、そして毎年恒例のリレー小説を書くだけになった。文芸同好会の本当の活動は夜からだ。さて、今年はどんな迷作が本誌を飾るのだろうか。この夜(実は二日間もかかったのだが)の成果は後ろの頁にて紹介している。そちらも是非読んでいただきたい。

 

 

 私にしては珍しく、機械(この場合は携帯電話のアラーム機能)に頼らず起床できた。朝食までに、幾分か余裕があった。しかし、何をすればいいのだろう。結局、この日の朝は「おはよう日本」で始まった。

 朝食を済ませ、荷物をまとめ、駅に向かう。小諸とはここでさよならだ。そして、小諸から二駅目の信濃追分に向かった。

 駅前のロータリーは閑散としていた。タクシーが一台停まっている他には何もない寂れた風景。信濃追分は辺鄙なところであった。林先生が歩き始めた。

 しばらく歩くと、道路はすっかり雑木林の中に呑み込まれてしまった。ここは別荘地なのだ。道路の両脇には様々な形の家々が建ち並んでいる。夏も終わりに近かったためか、ほとんどの家は雨戸が閉められていた。やがて秋になると、この森は長い眠りにつくのだろう。

 

 追分節というものを御存知だろうか。私は知らない。前々部長の根本先輩(現在高三)なら知っていそうだが。簡単に言ってしまえば、唄である。全国に同様の唄がいくつもあるそうだが、その発祥は、ここ追分だそうだ。元々、碓氷や鼻田といった険しい峠や、宿と宿の間を通る時に追分宿の馬子が唄っていたものが、街道沿いに伝わって、全国各地で形を変えて唄われるようになったという。二日目最初に訪れた追分宿郷土館では、このような、追分の歴史を学ぶことができる。

 郷土館の近くに、作家、堀辰雄終焉の家(堀辰雄文学記念館)がある。追分に来たのは、ここを訪れるためであった。

 堀辰雄は軽井沢をこよなく愛した作家だった。中でも、宿場町の風情を残すここ追分に惹かれ、毎年のようにこの地を訪れた。周辺を散策したり、読書をしたり、執筆活動もここでしていた。昭和二十六年(一九五一年)には、現在のこの場所に家を建て、亡くなるまでの約一年間をここで過ごした。

 記念館にある展示棟には、堀の愛用品や原稿などが展示されている。その中に驚くべきものがあった。ケース付きのパイプなのだが、ただのパイプではない。元は、師である芥川龍之介が使っていたものが、堀の手に渡り、その後、堀から中村真一郎の手に渡ったという逸品だ。

 記念館周辺には、堀の愛した追分の風景が数多く存在する。

 追分分去れ(わかされ)もその一つだ。宿場町追分のはずれにある、中山道と北国街道の分岐点である。生前の堀を写した写真に、この分去れの常夜灯をバックに撮影されたものがある。こちらへ向かって歩く堀の姿はまるで、江戸時代、この地を訪れた旅人のようであった。

 

 信濃追分を後にして、次は二日目の拠点、軽井沢駅へ。

 駅に到着したのは、ちょうど昼食の時間帯だった。まず、駅周辺の飲食店で腹を満たすことにした。しかし、駅周辺は軒並み大混雑していて、八人なんて到底入れそうもない。駅から少し離れた場所に、あまり混んでいない(ように見えた)蕎麦屋があったので、そこに入ることにした。流石に八人もいたら、店側も気を使ってくれて、すぐに座ることができた。ところがこの蕎麦屋、やけに高い。七百円のざるそばは高すぎはしまいか。仕方がないので千二百円までと決めて、各自自由に選ぶことにした。とんだ吝嗇家だと思われたに違いない。しかし、味は良かった。流石ソバの名産地。つゆにまでこだわっている。これで七百円は納得できる。

 そして、地獄の行進(林先生はそう言った)が始まった。蕎麦屋からひたすら歩いた。周囲の風景なんてこれっぽっちも目に入らなかった。

 涼しい別荘地を横断して、一年生部員森本君が奨める池(名前不詳。申し訳ない)を訪れた。熊が出没するらしく、池のほとりに「熊は非常に憶病な性格です。クマよけの鈴をつければ襲われることはありません」という看板が立ててあった。熊は果たして臆病なのだろうか。池よりそちらの方が気になってしまった。

 そして迷子になった。当初の予定を変更して池に行ったものだから(森本君は決して悪くはない)、すっかり道が解らなくなってしまった。前方を歩く二人の観光客の後をつけて歩いたが、共に迷子になってしまった。ほとんど獣道に近い小川の横の道を歩いて、どうにか舗装された道路に出られた。まさに地獄だった。

 

 観光客でごった返した旧軽商店街を抜けると、静かな別荘地に出た。さらに奥へ進むと、商店街の喧騒はすっかり消えてしまった。

 室生犀星は、この静かな地に自身の詩碑を建てた。犀星の書く詩のように、碑は飾らず、物静かにそこにあった。かたわらには、その足下に犀星夫妻の骨が埋められた石像が立っている。朝鮮で買った物だそうだ。微笑を浮かべる石像の顔に軽井沢の森の木漏れ日がゆらゆらと静かに揺れていた。やはり静かな場所だ。風に揺れる青葉の音が、周囲を支配している。

 犀星もまた、軽井沢をこよなく愛した文学者の一人だ。犀星の別荘(室生犀星記念館)がこの地に残っている。詩碑と同じ、とても静かな場所に。

 商店街の外れの林の中に、静かな一軒家がある。庭一面を覆う苔が美しい、犀星の別荘だ。犀星自ら築庭したという庭は、軽井沢の森と見事に融和している。こぢんまりとした家には、その当時の物ではないだろうが、ちゃぶ台が置かれ、玄関には二足の下駄がそろえてあった。とても良い演出だ。あたかも犀星が今もここに住んでいるようだ。ここにいた時、犀星はなにをしていたのだろう。日がな一日庭を眺め、たまに机に向かって詩を書いていたのだろうか。

 苔に落ちる葉影はこの家に流れる悠久の時を演出していた。出来ればもっと長くここにいたかった。静かで涼しい、犀星だけの世界に。

 

 二日目一番の収穫は、犀星の旧居を訪ねたことと、二段ベッドの上段で寝られたことだろう。

 私はベッドで寝た事が数えるほどしかない。貧乏なのだ。未だに地べたに布団を敷いて寝ている。最も、ベッドで寝るにせよ、地べたで寝るにせよ、眠ってしまえばさしたる違いもないのだが。それでも、二段ベッドの上段には憧れていた。何故だろうか。関白気分を味わえるからだろうか。

 同じ部屋の森本君には申し訳ないが、下段で寝てもらうことにした。彼は、それを快諾してくれた。有り難う森本君!とても優しい後輩である。

 さて、ホテルの部屋に入ってすぐに二段ベッドの上段に上った。そして、すぐに頭を天井にぶつけた。痛い。上段だからといって、必ずしも良いとは限らないようだ。以後、頭をぶつけないよう細心の注意を払ったが、それでも四、五回ほどぶつけてしまった。何処が細心の注意なのだろう。それでも、寝てしまえば、上段も良いものである。とても楽しい夜だった。

 

 

 何かを予告しているのだろうか。二日連続で機械に頼らず起床とは、かなり異常である。昨日と比べると、少し遅くに起きたため、「おはよう日本」を観る暇はなかったが、それでも驚くべきことには変わりがない。

 昨日と同じく、朝食を摂り、荷物をまとめ、ホテルを出た。いよいよ軽井沢ともお別れだ。

 まず最初に、バスで軽井沢高原文庫へ向かった。小さな文学館だった。しかし、敷地内には、有島武郎が情死した別荘や、堀辰雄の山荘といった、文学者ゆかりの建物が移築保存されている。おまけに、建物の内部まで見学でき、とてもサービスが良い。

 館内では、昨年亡くなった小説家、北杜夫の展覧会を開催していた。

 北もまた、軽井沢を愛し、別荘(現在は空き地)を建て、毎夏をこの地で過ごした文学者の一人だ。展覧会では、幼年期から晩年までの北の人生と仕事を、多くの資料を展示して紹介していた。

 面白いのが、老いてからの北を紹介するブースで、黄色い旗の中心にフクロウが縫い付けられた、独立国家『マンボウマブゼ共和国(北が建国した国家)』の国旗には、思わず吹き出してしまった。大マジメに(失礼だが)こんな阿呆なものを作るのだから。躁状態の北の写真などは、もはや芸人そのもの。躁鬱病(自称)だなんて嘘のようだ。後輩達は、そんな北のハチャメチャぶりに唖然としていた。当然だろう。私だって理解できない。

 受付正面のショップで、思わず北の短編『夜と霧の隅で』を買ってしまった。どうやら私も北ワールドの虜になってしまったようだ。

 

 二年生部員の豊島君は推理小説オタクだ。それも熱狂的な。普段の活動中も、彼はずっと推理小説を熱く語っている、ずっと。しかし、私はそんな彼を理解することができない。解らないのだ。推理小説の面白みが。

 軽井沢の、それも高原文庫の近辺に、彼にとっての聖地があるそうだ。名を浅見光彦倶楽部という。

 内田康夫の人気推理小説シリーズに登場する名探偵、浅見光彦。豊島君を推理小説の世界に招き入れたのは、この男なのだ。浅見の魅力については、私のような門外漢には解らないので、文化祭の展示をちゃんと見るように。豊島君が見事な説明をしてくれることだろう。

 浅見光彦倶楽部前のガレージに、トヨタ自動車の名車、ソアラが一台停めてあった。ナンバー・プレートを見ると、本来地名が表記される場所に、あるはずのない「浅見」の字が。ソアラは浅見の愛車である。恐らくこれが作中に登場する浅見のソアラなのだろう。とても芸が細かい。

 館内での展示も非常に芸が細かい。まるで浅見が実在する人間であるかのように、愛用品や、雑誌に掲載された浅見が書いたルポ、さらに、浅見の乳歯(浅見の母がこっそり保管していた物とのこと)など、様々な物を展示している。ファンにはたまらない展示だ。

 二階の展示室には警視総監(うろ覚えなので間違っている可能性あり)である浅見の兄の机をはじめ、事件の手掛かりとなった数多くの物品が所狭しと並んでいる。その中に、金塊に触ることができるコーナーがあった。金塊がのせられた机の後ろには、内田康夫のハリボテが立っている。ハリボテ曰く数十億円もするため、触る場合には隣にある手袋を嵌めろ、とのこと。触ってみる事にした。手袋を嵌めて、金塊を持ち上げた。軽かった。いつか持ち上げた本物の金塊と比べると、それはとても軽かった。案の定、金塊の下に紙があり「勿論、嘘です」。してやられた。もしこれが本物だとしたら、ハリボテではなく、屈強な大男を見張りにつけるところだろう。

 浅見光彦倶楽部は、私が想像していたものよりずっと面白く、遊び心があった。

 

 ……

 

 電車が横川を出発した。皆、黙りこくって読書に耽っていた。車窓の風景を眺める者は誰一人としていない。小さくなってゆく横川の山々は、やがて見なれた東京の無機的な風景に変わった。夏が終わった。そう思った。

 上野に電車が入ると、それぞれが散り散りになって、ついに夏は消滅した。静かに、とても静かに消滅した。空っぽになった上野駅のトイレは普段とまったく変わらなかった。そう、ここは普段の世界に戻ったのだ。そして私は普段の生活に戻るのだ。とたんに、疲れが血管の中を流れ始めた。早く帰ろう。私は足早に上野を後にした。

 こうして、合宿は終わった。

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